「萌え」という言葉は苦手なんです

「萌えという言葉は実態がよくわからないので、ちょっと苦手です。萌えっていったいなんですか?」と改めて聞かれると返答に困る今日この頃。確かにもう「萌え」の時代はとっくに終わったと思う。萌えに替わる新しい言葉が生まれてしかるべき頃合だとも思う。でも未だに「萌え」という言葉を使ってしまう。萌えたぎっているときの、あのなんとも名状しがたい感情の動きは、それこそ「萌え」としか表現できないワケで…。

その昔、鶴巻和哉だか誰だか忘れたけど、とにかくエヴァアニメの製作陣のお一人が「萌えとは“補う”ことである」という話をしてました。詳細は忘れましたが、確かにエヴァは極端な情報だけ与えて後は視聴者で勝手に妄想して楽しんでくれたまえ、という丸投げアニメだったような気もします。
余白をうまく残した物語(キャラクター)は萌えやすいですよね。
仮に萌え=“補う”ことであるとすれば、私は萌えを次のように解釈しました。
たとえば、私の通う高校に、須藤晃がいたとします。晃kunはリーゼント頭のいわゆるTSUPPARIハイスクールロケンロールで、どう見ても不良です。しかし私は、雨の日に偶然彼を目撃してしまうのです。ずぶ濡れの捨て猫を、「おまえもオレと一緒だな…」と言わんばかりの圧倒的孤独感でもって抱き上げ、やさしく連れ帰ってあげるさまを見てしまうのです…!ここで私は思うわけです。あのツッパリハイスクールロケンローは、ただのツッパリハイスクールロケンローではない、と。あのリーゼントのふくらみの中には、抱えきれないほどの彼の孤独・やさしさ・愛情・ぬくもり・純粋さが詰まっているということを知ってしまうのです…。
私の場合、かように魅力的なギャップを発見すると、自動的にそのキャラクターの裏側のストーリーを作り上げる作業が脳内で始まってしまうのです。なぜなら、


   ●情報A=彼はツッパリハイスクールロケンローである
   ●情報B=雨の日の彼は、捨て猫と同じ目をしていたの…


このような情報の隔たりは、そのままにしておくには、何とも据わりの悪い心地がするからであります。自分なりに“納得”したいために、AとBの隙間を埋めるストーリーが必要になるのです。そのストーリーをつくる作業が、私にとっての“萌え”であるような気がします。あるいはただ妄想するだけでなく、隙間を埋めるための情報収集に躍起になる場合もあります。それも、彼という物語を形作るピースを探すための行為に他ならないような気がします。


しかしながら、ただ単純に「かわいい」「かっこいい」「ときめく」「ハァハァする」ことを萌えという言葉に置き換える場合もあります。定義があいまいな萌えという言葉は、実に使い勝手がいい。



私の場合、「不幸萌え」という属性がありまして、不幸せな子とか可哀相な子を見ると、「コイツをなんとか幸せにしてやりたい」という感情が芽生え、それが萌えにつながる場合が多いです。きっとそういう子に対しては「幸せ計画」「幸せ物語」を頭の中でつくりあげやすいのだと思います。幸せになってほしい、と思う人にはよく「萌え」という言葉を使っています。逆に「コイツがもっと不幸になって絶望するさまが見たい」というドS属性が呼び覚まされる瞬間もあります。私は凡人なので、エスとかエムとか、属性がひどく曖昧なのです。それはそれで「萌え」なのです。


ともあれ、今度「萌えってなんですか」と聞かれたらなんと答えようか、思い悩む日々です…。