つくづく思いますけれど、新書って変わりましたよね。私が中高生の頃は、「新書は教養のために読むもの」というイメージだった。岩波、中公、文春、ちくま、講談社現代新書とか、読みたくもないのに読んで「調べさせられた」。だからつまんなかった(私は勉強が嫌い)。でも今は、教養というより、手軽な読み物として手に取る人が多いのかな、という印象。ビジネス書に近いというのかなぁ。ソフトバンクパブリッシング技術評論社毎日コミュニケーションズまで新書のラインを持っているのには驚きました。PHPはスタンダードなシリーズのほかに「ビジネス新書」なんていうものまである。幻冬舎も最近参入しましたよね。私が大学生のとき、集英社が新書を創刊したんだけど、「こんなの売れなくてすぐ終わっちゃうんだろうな」なんて思った。でも『さおだけ屋〜』が売れに売れて、光文社新書で大ベストセラーが出ちゃった。すごいなぁ。確かにあの本は読みやすくてタイトルが巧くて売れる理由のある本だったと思いますけれど、それでもやっぱり、「新書がバカ売れする」こと自体に新鮮な驚きがあります、個人的には。

ナショナリズムの克服 (集英社新書)

ナショナリズムの克服 (集英社新書)

最近読んだこの本の中で、森巣博さんが、「以前、新書は100知っている人が10のことを教えてくれるために書くものだった。今は10知っている人が100のことを知っているかのように(見せかけて)新書を書いている」と言っていて、ふーんなるほどな、と思いました。
どうでもいいのですが、この新書、はっきり言って萌えます。私は萌えてしまった。対談形式でネオ・ナショナリズムを解き明かす内容になっているのですが、東京大学のセンセー×自称「チューサン階級」の博打打(中学校3年程度の教養しか持ち合わせていない、という謙遜)という組み合わせのコントラストが、非常に小気味よいのです。こーいうテーマは、私はぜんっっっっっぜん興味ないのですが、するする読めてしまいました。
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

「ネット世代の論客が」と帯にでかでか書いていますが、それって売りになるポイントなんでしょうか? インターネット関連のテーマって、腐りやすい感じがしてあまり新書向きではないような気がします。と思ったけど別にこの本はインターネットだけをテーマにしているわけではないので、いいのか。私も日常的に「祭り」という言葉を使うことには違和感を覚えてます。インターネットの世界だけですよね、「ちょっとした祭りが起きた」なんて表現を使うのは。これにどーも抵抗がある。けど、なんかこう、「祭り」としか表現できない現象って、確かにあるんですよね。こーいう実体のない熱狂というのは、気持ちの悪いものですなぁ。若者への視線のやさしさはいいと思うのだけど、この著者も70年代生まれで、まだまだ執筆者としては「若い」範疇に入ってしまうからなぁ…。環境のせいばかりでない「若者の甘え」、というのは私は確実にあると思うのです。父親が団塊の世代でその影響を強く受けているからか知れないが、70〜80年代生まれの人が言っていることというのは、どーも共感しづらい。まぁ多分、これも偏見なんだと思う。