美しいシンメトリーに感じる恍惚と哀しさ

ありよしさん(id:ariyoshi:20050123)が「シンメに求めるもの」で語っておられる文章を読み、成る程と思いました。特に私が深く感銘を受けた文章を引用させて頂くと、

どんなに今まで違った人生を歩んでいても、またまったく別々の活動をしていても、揃うと一箇所の狂いもなく完全に組み合わさってしまう二人――そういう存在は確かに存在するのです。まったく同じというのとは違います。嵌め込むところが同じ形なだけなのです。そしてそれは空色しかないパズルを組み合わせるよりもっと難しいことなのです。それを人は「運命」とか「奇跡」とかいう言葉で呼ぶのです。

特に「まったく同じというのとは違う、嵌め込むところが同じ形なだけ」というくだりが素晴らしいです。人それぞれ「何によって噛みあっている二人であるか」を判断する基準というのは異なるのでしょうが、それはその人がシンメに何を求めるか、その理想像の違いによるのでしょうね。例えば昔ありよしさんがシンメに求める条件として挙げていたものに以下の五つの項目がありますが、

背格好が似ていること、ものごとの価値観が(変なところで)なんとなく似ていること、顔の系統が違うこと(髪型や髪の色が違ったりしていたらなおよし)、ダンスが似ていないこと(でも同程度踊れること)、プライベートでめっちゃくちゃ仲が良いというわけではないこと

これには私は全力で同意したい次第です。人によっては、これら条件とは全く逆のことを求める人もいらっしゃるでしょうか。しかし、私は「兄弟の様に仲良し」「完璧なユニゾンダンス」「一卵性双生児の様に見事な相似」なんてモノにはてんで魅力を感じないのです。何故なら、同じものが二つもあれば、どちらか一つでいい、そう思ってしまうからです。片方はもう要らなくなってしまう、そんな不安が付きまとうのです。これはきっとタレントさん達本人にもある不安なのでは無いのかなと私は漠然と考えていて、キンキさん達があれ程正反対の性格をしていると言われる様になったのも「自分達は”同じ”になってはいけない」という不安に近いものがあったからなのでは無いかなんて考えてもいたのですが、まーこれは私はコンビ組んだことが無いんで分かりません。ただ、私には姉がいるのですが、ガキの頃は姉の行くのと同じ道を同じ速度で歩きたくて仕方無かったものが、何時の間にかそういう欲求は全く無くなってしまいました。それと似ていなくも無いのかも知れません。それは比較でしか評価されないことへの不満であるとか、単純に愛情の優劣をつけて欲しくない逃げなのかは分かりませんが、とにかく身近な”同じ血を持つもの”の存在はある種脅威であり、それから逃げるために私も単独行動(ある意味「ソロ活動」みたいな)するのかも知れません。ありよしさんも「兄弟」である事も一つの鍵であった様に書かれてますね。その神話をありよしさんの語られている誤読の文脈で解釈するなら、確かに「生まれたときからシンパシーを感じ合う」、というのはかなり重要な点かも知れませんね。引用してもらった一文で私も

こういうかたちで組まされた二人っていうのはもう他人じゃない

という様なことを書きましたが、「思春期を共に過ごす」というのはこの「シンパシーを感じ合う」、「最早他人では無い」という意識を、物凄く濃密に育てる気がしました。彼等には同じ血が通う訳です。それでも人は、シンメトリーを構成する個人それぞれに異なる個性を求めるし、それらが掛け合わされて生まれる「二人の個性」にはもっともっと沢山の事を求めるのです。彼等の「お互いは他人では無い」意識は複雑にもつれ、やがて彼等は互いに背を向け反対の道を歩き始めます。でも彼等はお互いに背中を預けている。「二人」でやるときには、他に頼れるヤツなんかいないからです。そこに停滞が生まれます。
しかも彼等には明確な立場の差がありません。兄弟の何が分かりやすいかと言うと「兄・弟」というれっきとした立場の違いがある。コンビというと真っ先に浮かぶのはお笑い芸人さんですが、あの方達には「ボケ・突込み」という更に分かりやすい役割の違いがある。だから私は剛くんが若い時に光一くんのことを芸人さんっぽく「相方」と呼び、自分達にお笑い芸人めいた味付けをしようとしていたのは、凄く涙ぐましい「立場の明確化」をはかる行為なのでは、と感じました(いや、ただ単にお笑い好きだったんでしょうけど)。そして今の彼が光一くんのことを「パートナー」と呼ぶのには、凄く、物凄く、ひっじょーーーーーおおおおに強く、「ああ、大人になったんだなぁ」と感じます。なかなか「パートナー」とは呼べません。
あーーーなんか意味不明になってきた。
何が言いたいかって言うと、「まったく同じというのとは違う、嵌め込むところが同じ形なだけ」の一言に集約されてしまう訳なのですが。だから私は彼等がソロ活動に情熱を注ぐのは大歓迎でありまして、むしろ同じ事をされた方が怖くなる事請け合いだと思います(例えばキンキさん二人ともが、ドラマを通して芝居に目覚め、役者志向を持ったとしよう。同じフィールドで勝負しなければならないと当然ついてくるのは厳しい比較評価、決定的な優劣である。そうなると彼等の「二人組」としての寿命は半分は短くなると私には思われる)。
あと、だいぶ昔になるのですが、myaさん(id:mya888)がキンキさんのことを「外で激しいプレイをして家庭に帰ってくるスワッピング夫婦、みたいな(笑)」(id:mya888:20041107#p2より)と仰ってましたが、マジでそれに近いと私も思います。ありよしさんの話を読んでたら岡村ちゃんの単行本に出てきたスワッピングカップルの話を思い出しましたもん。「嵌め込むところが同じかたちなだけ」というのはつまり(以下自主規制)。
つーか私の話は長いです‥‥。ごめんなさい。