ファンの体質

私は昨日、
『KinKi両方好きって言っても、必ず愛情に偏りはあると思う。無い筈は無い、と思っている』
と軽々しくも日記の文中に書いたのだけれど、それに対する(?と言ってしまって良いのか分からないが)、知沙様のコメントを読み、「こんな風に二人を愛している人も、本当にいるんだな」と思い、ファンとしての理想像を再認識した気持にさせられた。
多分、彼らを応援する人々の中には、彼らのことをまるで自分の子供であるかの様に暖かく見守っている人が存在するのだと思う。それに近い眼差しを感じる。親の子供に対する愛情は須らく絶対的であるべきものであり、例えば二人っきりの兄弟を持ったならば、彼らを「等しく」愛する事が当然だろう。親の愛情に贔屓はあってはならない。何故なら、それこそがこの世に最も存在しやすい形の「無償の愛」なのだから。

でも私はKinKiの二人に対して「無償の愛情」を持ち得る事は、これまでも、この先も無いだろう。これには、私がまだ家庭も子供も持たないこと、彼らより歳も経験も重ねていないことなども関係していると思う。頑張って応援して、お金もいっぱいかけて、「ほら、私って、あなたのことこんなに愛してるでしょ?」なんて偉ぶるつもりも無いけれど、彼らにはいつもファンであるが故の「期待」をしているし、それを裏切られたと感じた時には「落胆」もしている。

これはファンとしての「タレントと自分の距離感の持ち方」とも密接に関係している問題なのかも知れない。
私はその人のファンであればある程、その人について情報を得れば得る程、対象となる人物が「見えなく」なっていく気がしている。それは丁度、知識が球体の様なものだと説明されることに似ている。「知識」が増え、球体が大きくなればなる程、未開の空間と触合う面積は大きくなってゆく。つまり、自分と触れ合う「未知の事柄」が増えてゆく、ということだ。
愛すれば愛する程、その人物の「本質」に霞がかかってゆく様な気がして、それは自分にとっては「愛情」とはかけ離れた「気持」なのではないかと、そんな気がしている。

これが例えば身近な人物同士だと違う。「知識」の「球体」同士が、触れ合い、成長し合える事もあるのだから。知れば知る程に、重なり合う部分が大きくなって、「愛情」も深まるのだと思う。でもKinKiと私が触れ合うことは、多分一生無い。ファンでいる年数を重ねても、タレントと私の距離は縮まるばかりか、遠ざかっていくばかりな気がしている。だから好きなタレントを追い回して迷惑を掛ける連中の気が心底知れない。どうして自分の醜く歪んだ球体を彼らにさらせるのだろう。彼女達は一瞬でもそれが本人達と「触れ合った」と、そう錯覚するのだろうか。どう考えてもおかしな考えだ。前述の「無償の愛」と正反対に位置づけられるべき、まさに「愚の骨頂」と言える恥ずべき行為だと思う。
例え触れ合うことが無くても、それでも、私はそれでいいと思っている。私は彼らを「研究」というか、「関心の対象」として見てしまうくせがあって、そういう冷めた好奇心にかこつけようとする詰まらないプライドがあるのかも知れない。
勿論、彼らを応援する人々が皆私の様なひねくれ者ばかりで無いのは分かりきった事だし、そんな人ばかりだと本当に困る。彼らが様々な表情・カラーを見せてくれる様に、ファンもそれぞれが応援したいスタイルで、愛情を送り続けている。それで素晴らしい。

だって世界は決して「知識」だけでは説明出来ない「愛」に満ちているのだから。

夢カリで〆でした。