共感する

すべての人間に手は届かない、触れられない、
すべて遠くに離れている……できることは通信、通信だけ…………!
闇の中を尽きることなく交差する言葉たち、繰り返される通信……
「マイッタヨ」「ソレデ……?」「チガウチガウ」「コレカライク」
不確かで、心もとないその言葉たち、通信は基本的に一方通行だ……
本当に自分の心が相手に届いたかどうかは、誰にもうかがい知れぬ…
返信があったとしても、どこまで理解しての返信やら……
しかしそれで仕方ない……………………………………………………
通信は通じたと信じること、伝達は伝えたら達するのだ…
それ以上を望んではいけない、理解を望んではいけない…
真の理解など不可能、そんなことを望んだらそれこそ泥沼…
打てば打つほど、焦燥は深まり、孤独は拗れる……………………
そうじゃない、そうじゃなく打とう…………………………!
無駄ばかりの誤解続き、人間不信の元、理解とは程遠い通信だが
しかし、打とう!
あるから!
確かに伝わることが一つ!
温度、存在、生きているものの息遣い、その儚い点滅は伝わる……!

うちの母はしょっちゅう話の腰を折る人です。たとえば父や私が、ニュースや新聞を見ながら自分なりの考えをとうとうと語っているときにも、とつぜん「このうどんおいしいね」などと関係ない発言をして、場の熱を冷ますことが何度もあります。それはもちろん堂本 光一の「このエビフライおいしいね」的な現場の雰囲気緩和のための一言ではなく、ただ思いついたことを口にしているだけなのです。
なんでそんなことができるのか、私には皆目理解できません。たしかにうどんはうまかった。だけど、「いま人がしゃべってるだろ…言葉もうどんと一緒に飲みこめやっ……!」「コミュニケーションは、忍耐だろうがっ…!」と思ってしまうのです。

しかし、このように「ただ思いついたことを何でも口にする」人は意外におおいのだということに後から気づかされました。それは、友だちと電話をしているときなどによくよく感じます。たとえば、大学のころなんかは、よく深夜に電話がかかってきて、相手が私に打ち明け話をする。『なんか大事な話をしてくれたし、じゃあわたしからもしてみよか…』と、「それでね…」と話し始めたところで、「あ、電球切れた」。もう、その後はえんえん電球切れたトークですよ…。しかしながら、電球が切れた話などはわたしには死ぬほどどうでもいいわけです。電話ですから。見えませんから。うちはちゃんと電気点いてますから。でも、一人暮らしの相手の立場を考えると、確かに電球が切れることは一大事です。だから、なんとなく文句も言えない。むしろ私の「打ち明け話」なんてもののほうが、世の中的にはどうでもいいことなのかもしれない…。ともあれ、私の打ち明け話は宙ぶらりんのまま、切れた電球のように中途半端に天井からブラ下がり続けるわけです。もう、明かりを灯される機会はないままにっ……!そして、私自身も「相手の話(=電球切れた)をどうでもいいと思っていて、自分の話を中断させられたことをひどく気にしている」時点で、相手を悪く言うこともできないわけです。

そういう機会が何度か続いたものですから、だんだんとわたしは、「人間はできうるかぎり自分の話をしたい生き物なのだ」と思うことに決めました。理解を求めない。相手に求められることを求めない。そう理解している自分を大事に生きることにしたのです。それからわたしは「パーソナルなことを電話で話すのは避けよう」「とりあえず相手の話を聞くことに徹しよう」とルールを定めています。そうすれば、少なくとも自分の宙ぶらりんを避けることができます。相手の宙ぶらりんを避けるために、神経を配るだけですむのです。そうすると会話が格段にラクになりました。自分自身と直接関係ないところで好き勝手語れる萌え話もラク

自分のペースで話ができるメールだと、とたんに饒舌になってしまうのは、そのせいかもしれません。おまけにメールは相手が「どうでもいい」と思ったら流し読みしてもらえるという点で非常に私にとって好都合。なので、私からのメールは、そんなにしっかり読んでいただかなくとも、ぜんぜん気にしないでいただいて大丈夫です。もちろん「日曜日の待ち合わせどうする?」とか、問いかけのメールにはある程度答えていただかないと困るんですが、それ以外は何一つ問題ない。返信がなくても気にしないし、困らない…。そんな感じです。
全体的に相手に対しても失礼な考え方ではあるんですが、いろいろ考えた末の結果です。


そんな面倒くさい毎日でも、人と人とのかかわりでも、
しかし、打とう!
あるから!確かに伝わることが一つ………!


結局何が言いたいかというと、福本先生はいいことをおっしゃるよね…ってことです。