http://d.hatena.ne.jp/kaien/20060822/p1
見当はずれなことばかり書いていたらごめんなさい。

ぼくらはだれもみな、平然と蚊やゴキブリを殺す。邪魔だから。わずらわしいから。これは「悪い」ことだろうか?

 あるいはまた、ぼくらはみな牛や豚を食べる。腹が減るから。うまいものを食べたいから。これは本当は「悪い」ことなのだろうか?

 あるいはこのふたつが「悪い」ことではなく、そして子猫殺しが「悪い」ことだとするなら、蚊や家畜と猫の差はどこにあるのだろう。

 知能が低い生き物なら殺しても許されるのか? あるいは、見た目がかわいくなければ許されるのか? それとも、食べるためなら許されるのだろうか? よく、わからない。

 もちろん、感情的には容易にラインを引くことができる。蚊が潰されて死んでしまうのも、牛が解体されてひとの胃袋に入るのも、可哀想でもなんでもないが、子猫が殺されるのは可哀想だ。そういうことはできるだろう。

 しかし、それは結局、個人レベルの感傷に過ぎない。自分が可哀想だと思うのだからそれを尊重しろ、と他人に押し付けることはとても危険だと思う。

 そりゃ、たしかに猫はかわいいよ。萌えるよ。しかし、ひとつの命に対し、かわいいかかわいくないか、という次元でその生存権を測るのはおかしい気もする。

私がこの作家さんの件について感じた疑問はひとつです。
「飼っているのに?」
飼っているのに殺すのですか、という疑問がまず頭に浮かびました。

今回の件について考えるとき、単にゴキブリなどの害虫と比較するのは、何かが違うような気がします。比較するならば、「飼われているゴキブリ」と比較するべきではないでしょうか? もしくは、ゴキブリの比較の対象を「飼われていない(近所の野良)猫」に設定しなければ、そもそも比較にはならないのではないでしょうか?
世の中には、害を及ぼすとされる虫を愛好する人もいるでしょう。ゴキブリを愛好し、飼っている人が、(自分にとっては)「かわいい」ゴキブリを間引きをしていたら、どうか。私は、「飼っているのに、殺せるのですか」と、猫殺しと同じ疑問を覚えます。「かわいい」という感情は、単に外見的なイメージのみに誘発されるものではないように思います。生活をともにすることでおこる、「情」のひとつとも言えるのではないでしょうか。

ひとついえるのは、坂東眞砂子不妊手術が不適切で、猫を殺すことが適切な行為だと考えているわけではない、ということだ。

 上記ページのコメント部分には、「避妊手術は駄目で殺すのは良いという価値観w」というコメントがあるが、坂東はそんなことを書いてはいない。

 本来、不妊手術も猫殺しも「駄目」なのだ。だが、現実に猫を飼う飼い主として、どちらかを選ばなければならない。だから、自分は生まれてきた猫を殺すほうを選ぶ、と書いているに過ぎない。

 もちろん、第三の方法、たとえば生まれてきた子猫も親猫といっしょに飼い育てるといったこともできるだろう。しかし、その方法を選んでも、いつかは生まれてきたこどもが子を産むことになる。その時点で板東はふたたび選択を迫られるわけだ。

猫の飼い主になるためには、まず動物を「飼う」という選択をしなければなりません。「飼わない」こともできるのですから(この作家さんが猫を飼うことが、たとえば義務だったのならば話は違いますが)。飼う、飼わないという選択肢を乗り越えて、はじめて「去勢か猫殺しか」という選択肢が生じると思うのです。
この作家さんがどちらの選択肢を選ぼうと、それについて私はどうこう意見するつもりはありません。ただ、猫を飼うものにとって、相当の苦渋をともなうであろう後者の選択を乗り越えてまで、この方が猫を飼うこと選ぶ理由は一体なんなのだろうなぁ、とそんな風に思います。
なぜ後者のほうが苦渋をともなうかというと、それは既述のとおり、生まれた仔猫と一瞬でも時をともにしてしまうと、人間には何らかの「情」がわいてしまうことが多いのでは、と思うからです。


しかしながら、私がいま感じている疑問が、相当的外れなものであることも重々承知しています。「後者のほうがつらい」というのは、私の判断だからです。あくまで「生命を絶つ段階」の話をしないといけないとは思うのですが、それについて話をしていると、どうにも話が大きくなりすぎるような気がするので、今日はこのあたりで。