ストリッパー  二人の『音楽』

タイトル『ストリッパー』は、るうさんのところに書かれていた剛さんを表した言葉。なんて素敵な言葉。極めて的確な表現だと思いました。
剛さんは創造者で、光一さんは表現者であるとの主旨で、もうまさに全文同意!一字一句逃さず同意っ!!といった感じなのですが、彼らの「音楽的才能」を私の視点で見てみると、丁度真逆の方向性に適性がある気がしている。

その昔、

で、私がホントにもどかしいな、って思うのが、堂本光一には、作曲に対して「こんな曲作りたいなー」とか、作らずに居られない!みたいな『衝動』のようなものを全く感じないという点なんですよね。それってすっごく悲しい。昔吉井さんが「アナタ、作ろうとしてアルバム作っちゃイカンよ」と偉いさんから言われた話をしてましたけど、光一くんはきっと、死ぬまで作ろうとしてアルバムを作る人なんじゃないかなって思うんです。

はあ・・・

逆に剛さんは表現したい衝動がほっときゃー体中から溢れてくるタイプ。それってすっごくアーティスト的だとは思うんだけど、彼には如何せん創造者としてより、表現者としての才能がありすぎる。

無理して自分で曲作らんでも・・・って思わずファンでも思っちゃう位、彼は人が作った曲にすんなりと入り込んで、自分なりの解釈と味付けで歌うことが出来る人だと私は思うんですよね。

ああ・・・だから私は今こそ二人が共同で作った楽曲をもう一度聴いてみたいなと思うわけですよ。

みたいな事を書いたりしてるくらい。
でも彼らの積極的な意思は、るうさんの指摘した方向を向いている気がしてる。


例えば剛さんファンでも、「剛さんの音楽そのものが好きだ」と言い切れる人って少ない様な。「剛さんの音楽だから、剛さんがあの声で歌うから好きになってしまう」種類の、聴き手を引き寄せていく音楽と言えるのではないか。

それとは対照的に、堂本光一という人は、実にプロ意識の高い曲作り、ある意味凄く「ミュージシャン的」な作曲への取り組み方をしていると思う。締め切りギリギリにならないと作れない、とか、ある意味凄くミュージシャンだと思う。カッコイイ。彼の音楽は、聴き手側に自分を寄せる、というのかなぁ。だからこの人には他人をプロデュースする能力もあるんだと思っている。私は堂本光一の作曲の才は本物だと信じて疑わないのだが、そういう意味では本当にこの人は、こと音楽に関して「創造者」としての才能があるのではないか。でも、インストでも無い限り、優れたメロディーに「伝えたいこと」「歌わずにいられない想い」が加わる事で、初めて聴く者の心に「堂本光一の音楽」が伝わる(少なくともJポップでは)訳で、けれど、彼には言いたい事も伝えたい事も無いのですよね。

締め切り無くても曲を書き溜められる剛さんとは正反対。私は剛さんには作詞の才がある、と以前の日記にも書いたけれど、そういう意味で自分の詩を全力で「表現」しようとする剛さんの姿勢ってば、本当に真摯だなぁと思ふ。作曲も作詩も「創造」だけど、彼の本領が発揮されるのはそれを「表現」する段階だと思うのだ。勿論、剛さんの作る曲自体が好きな人がたくさんいても、それは当たり前だとも思うのだけど、それでも!「ライブロッソで『心の恋人』を歌う彼なんかもう、自己満足、自己陶酔、自己演出、自己顕示、自慰倒錯(え?)・・・・もう溢れる様な「自己。自己。自己自己自己自己。・・・ジコジコジコ。自己!!!!」の「己」の洪水で、曲がどーどかより、まず「本人そこにありき」な魅力が満載。(あの一瞬だけカメラ目線になるとこもたまりません。こっちがメロメロなのわかってやってるから本当カッコイイ・・・うっうっ・・・)

彼らは二人とも音楽ずきだと思うけど、ここまでキレーに正反対だといい感じですね。だから二人で曲を作ると本当にいいバランスだと思うのに。光一くんが作曲で、剛さんが作詩。逆も面白いと思うけど。二人が作った曲が聴きたいです。