鶴巻和哉、サイコー!! 本日のテーマ・『「萌え」って何?』(一人ジェネジャン)

■インタビュア
貞本義行さんが以前「鶴巻は自分より萌えがわかっている」とおっしゃっていたのですが、鶴巻さんがお書きになった「特定のキャラクターに関する不十分な情報を個人的に補う行為」という定義を読んで、確かにその通りだと感じました。」

■鶴巻
『それを書いたのは3年くらい前ですね。「萌え」という言葉が一般化していく過程で、意味合いも散り散りになっていったように感じるのですが、最初のころにあった「萌え」という現象は、補う行為だったと思うんです。作品の中に「萌え」が描かれているわけじゃないだろうと。「萌え」は受け手の側にあるもので、受け手の中で勝手に芽生える衝動だと思うんです。』

特に素晴らしいなと思ったのが、
『作品の中に「萌え」が描かれているわけじゃないだろうと。「萌え」は受け手の側にあるもので、受け手の中で勝手に芽生える衝動だと思うんです。』という所。
鶴巻和哉、侮り難し。
私は「萌え」について、せいぜい「いかんとも表現しがたい特定のキャラクタに対する胸キュンな衝動」くらいにしか定義づけ出来てなかったのですが、これを読んで何となく何故『萌え』がこれほどまでに「大勢に共有されやすいようで、それでいて極めて個人的なものであり続けるのか」ということが分かったような気がしました。うーん、「萌え」は受けて側の補う行為か・・・。巧い表現ですね、ホント。

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そういう意味じゃ私はKinKiさんだと光一くんに「萌え」る部分が多いかも。
だって、彼の瞳って寂しくはあるけれど、物を語らない瞳だから。だからこっちは勝手にストーリーを補いたくなるんですよ。しかも彼は自分を「説明」しない。そういう言い訳をしない所も、受けて側にとっては非常に「都合が良い」のですよねぇ。妄想に矛盾が生じにくい訳ですから。
剛さんなんかはあんなに俺様殿様剛様な人なのにどこまでも寂しがりやで(それを「欲深さ」ととるか、私の様に、余りに特殊な立場ゆえの「寂しさ」ととるか)物を語る瞳なのですよね。こちらはストーリーを補わなくても、彼の中に物語はある訳です。ああ、これはこの間友達が言っていた「誰かのファンになること」の定義づけに似ているなぁ。でもファンやってて不思議なんですけど、剛さんて受け手に過剰な位ヒントを与えてくるからすぐにでも「矛盾」が生じてしまいそうなのに、何故かそれすら丸め込んでしまう説明不能の引力があるのですよね。そしてその「引力」はいつも(最近は全然いつもじゃないけど)隣にいる堂本光一という人によって、大きく支えられているに違い無いな、って私は思うのです。
いやぁーKinKiって、本当に素晴らしいですね。